2008/11
社会インフラ― 近代水道―君川 治


野毛山公園の排水池

パーマーの胸像

掘りだされた当時の配水管


笹塚の10号通り商店街


駒沢給水塔
 渋谷村の水道事業のため多摩川砧で取水して浄水し、駒沢に給水塔を設置して自然流下で渋谷村20万所帯に配水する設備で、大正10年に起工し12年に完成した。世田谷区弦巻の住宅街の中にあり、写真の給水塔が2基ある。大きすぎて二つを同時にカメラに納めることが出来なかった。(高さ約30m、内径約12m)

野方配水塔
 昭和2年に着工して5年に完成した。豊多摩地区の人口増加の対策として多摩川の喜多見で取水し、荒玉水道を経て野方配水塔に貯水している。高さは33m、直径18mであり、住宅街のど真ん中にある。
 江戸の上水は徳川幕府の指示により神田上水も玉川上水も短期間に工事を完成させた。ところが明治政府の水道政策を見ると紆余曲折が甚だしく、近代水道として最初に完成した横浜が明治20年、東京の水道は明治31年である。民主的な合議制は時間がかかるともいえるが、鉄道・通信などの全く新しい技術に対しては即決に近い形で進められているのに比べると違和感が強い。

 江戸の上水は清浄な自然水を、傾斜を利用して自然流下する方式である。配水路は、石樋、木樋、竹樋などを利用して井戸まで運ぶ。これに対して近代水道は浄水場を設置して水を浄化し、配水路に鉄管を使用してポンプで圧力をかけて水道栓まで導水する。
 江戸時代に作られた上水は、通常、取水地から水路を開削して導水しているので、途中でゴミや汚泥水が混入して水質を悪化させてしまうおそれがある。
 東京を例にとって見ると、明治7年に警視庁の奥村陟が水質調査し、「玉川上水の上流には多くの洗濯場があり、代田村の柵には野草・木の枝・犬猫の死骸・塵埃が堆積して毎日2回取り除いており、川沿いの道路より低いところでは降雨による道路の汚水・牛馬犬猫の糞尿が流れ込んでおり飲み水として問題がある」と報告している。
 この年以降、文部省、工部省、東京府衛生局、内務省などが東大のお雇い外国人教授など専門家に水質調査と水道改良計画を2〜3年ごとに行っているが、維新政府は多方面に事業展開しており、金がないので重い腰が上がらない。
 当面は対症療法で、上水道に柵を設けたり監視員を配置したり、上水取締規則を制定などするが、外国との交易が増えるにつれ伝染病が流行し、特にコレラは明治10年、12年、15年、18年、19年と大流行して全国の死者は300万人とも言われた。さらに東京では約3年に1回大火に襲われており、明治20年までに神田だけでも6回も、1000戸以上焼失した火事が起こっている。
 重い腰を最初に上げたのは横浜であった。神奈川県知事の依頼で水道設計をしたのはイギリス人パーマーで、明治16年に調査を始め、18年に相模川水源から取水して40qの水路により現在の横浜市西区の野毛山公園に浄水場を設け、鉄管による配水管を使用して明治20年に完成している。この当時は個人の家まで水道を引きこんでいるのは10%以下で、大半は供用栓を使用している。

 横浜の野毛山公園に行ってみた。桜木町駅からきつい坂道を登って小高い丘の上に緑豊かな公園と動物園がある。横浜は大正12年の関東大震災で多くの施設や建物が被害を受け、ここの浄水場も破壊されてしまった。現在は配水池が設けられて現役で活用されている。
 公園の中には近代水道の父と称えられているパーマーの胸像があり、近代水道発祥の地記念碑には「――いつでもどこでも安全で良い水が欲しいという人々の夢はこの近代水道の完成によって実現された――」と記されている。当時使用された鉄管も桜木町駅近くに展示されている。
 維新政府は東京・京都・大阪の3府と横浜・函館・新潟・神戸・長崎の5港を優先的に水道整備地区と定めて建設費用を支援する方針を定め、水道事業は原則公営事業と定めた。横浜に次いで近代水道を整備したのは函館(明治22年)、長崎(明治24年)、大阪(明治28年)で、東京は明治31年にやっと完成した。

 東京の水道事業の紆余曲折の主なものを拾ってみる。
 明治8年にファン・ドールンの東京水道改良計画、明治9年には東京府水道改正委員会設置、明治10年、ドールン案を下敷きに「府下水道改設の概略」をまとめる。
 他方、渋沢栄一ら財界人は横浜水道の設計者パーマーに東京の水道改良設計を依頼し、明治21年に東京府がやらないなら民間でやると、東京水道会社設立を申請して脅しをかけた。
 東京府は「都市改正委員会」を設置し、道路、河川、橋梁、家屋、上水、下水、公園、各種市場を検討項目とし、水道の計画は前進しなくなってしまった。動き出したのは長与専斎が技術専門家として委嘱されてからだ。
 幕末、緒方洪庵の適塾で医学を学んだ長与専斎は文部省医務局長となり、続いて内務省衛生局が新設されると初代衛生局長となって、伝染病予防など我が国の衛生事業に大きな功績を残し明治24年に退官するまで局長を務めた。この長与は明治20年にイギリス人バルトンを東京帝国大学工科大学衛生工学科教授に招聘し、東京府の水道改良設計を依頼した。
 東京府はバルトン案とパーマー案の比較をベルリン水道局長ヘンリー・ギルに依頼した。計画案が政府認可となったのは明治23年である。
 認許となった計画案は水源を玉川上水とし、四谷大木戸近くの千駄ヶ谷に浄水場を設置し、小石川と麻布に給水工場を設置する案であった。明治23年に漸く方向性が定まったが、完成は何と8年後である。

 実施にあたっては日本人の手で実施するよう決められ、ドイツ留学中の中島鋭治が急遽呼び戻された。中島は仙台の出身で明治13年東京大学土木工学科に入学、卒業後すぐに助教授となり、明治20年より3年間の留学を命じられた。
 中島は内務省技師、東京府水道技師となって計画案を精査し、浄水場の位置を淀橋に、給水工場の場所を本郷元町と芝栄町に変更して水道工事を着工した。
 しかし、信じられないことに反対運動が起こる。この反対運動は東京だけでなく水道を計画している全国各地で起こっている。水道事業は工事に巨費を投ずる負担増が大変、鉄管は腐食するし地震に弱い、他に先にやることがあるだろう、等が反対理由である。
 明治28年には日清戦争がはじまり、資材の高騰、労働力の不足、鉄管製造会社の技術不足、納期遅れなど様々な問題が発生し、明治31年にようやく完成した。計画時の工費は650万円、実際の費用は918万円であった。
 その後、中島鋭治は全国の44の水道事業にかかわったとされ、こちらも「近代水道の父」と呼ばれている。中島の第一の成果は浄水場を淀橋に変更したことと言われている。現在の新宿副都心のある辺りが淀橋浄水場で今やその面影が全くないが、玉川上水の代田橋近く杉並区和泉町で取水して淀橋まで緩い勾配の新水路を開削した。
 この水路に架かる橋を淀橋から1号、2号・・と名前を付けており、僅かにこの名残が地名に残っている。京王線笹塚駅前に10号通り商店街がある。商店街の外れ、10号坂の入口の所に「玉川上水新水路跡」の説明板があり、10号通り商店街の名前の謂れも記されている。ここから少し代田橋方面に歩いた所に「13号公園」があった。
 中島鋭治に係るものとしては世田谷の駒沢給水塔と、中野区の哲学堂の近くの野方配水塔がある。どちらも緊急時の水槽として貯水しており、現役である。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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